書く実験の記録

#746 適当さとルール

何か色々なことを実験しようとした時に、「何かを色々試す」という実験と「何かを続ける」という実験を、なかなか両立することは難しい。まあもちろん両方やってみればいいのだけれども、残念ながらできることは有限なので、本当の意味で全部やることはできない。もっといろんなことがしたいなと思うけれども、やはり選ばなくてはいけない。

しばらく「何かを続けてみる」ということの一つとして、同じようなルールで文章を書き続けてみた。しかし「続けてみる」ということは、すでにしばらくやったとも言えるので、変えてみてもいいかもしれない。もっと適当に文章を書いてみよう。

そもそも「適当に自由に書いている」ように見えるこの文章も、実はいくつかのルールに基づいて書いていたりする。例えば、時事的なことにはあまり言及しないようにしている。

そんなことはさておき、とりあえずチェンソーマンの映画が見たい。最近上映が始まって色々PVなども流れてきていて、うまく言語化できない“エモ言われぬ良さ”みたいなものが詰まっているなと感じている。そういう言葉にしづらい良さは企画書には落とし込みづらいし、だからこそ「まず作ってみるのだ」という部分はある。

自分はどちらかといえばエンジニアリングの人間であって、それゆえに作れるものもあるし、逆に作れないものもある。もっと正確に言えば「作れない」と言ってしまうのは良い気持ちではないから、「あまり得意ではない」や「これから作れるようになりたい」「チャレンジしていきたい」という表現がしっくりくる。いずれにしても現時点では、自分の特性としてどうしても不得意なものはある。全てのことが得意な人間はいないしね。

自分の中ではそういうエンジニアリング的な部分と同時に、その重要さも感じている。しかし広いエンジニアリングの中でも、重要であり続ける部分もあれば、残念ながら重要度が下がってしまう部分もある。そういった変化は技術革新のたびに起こるし、それに付き合っていくしかない。

一方で、それとは無関係とは言い難いけれども、「言葉にしづらい良さ」や「人間の感受性に根ざした感覚」、その時代やその瞬間の社会だからこそ感じる“何か”というものは、企画書には落とし込めないだろう。もっとも、その裏には非常に狙ったロジックが存在する場合もあり、そういう時には「めちゃくちゃすごい」としか言いようがない瞬間がある。

とにかく、「無事に作る」から少し離れたところで、その“良さ”を作ることを、もう少しやっていきたいなと思っている。

今ふと目を上げると、家のパンチングボードが壁に貼ってあり、そこには色々な道具が掛かっている。しかし止め方が良くないのか、少し湾曲して膨らんでしまっている。掛けているものの重さでそうなっているのだろうが、全然納得はいかない。もっと良い設置の仕方があったのかもしれないので、改善したいと思っている。

そういう日常的な小さなことも人生の一部であり、映画を観たいと思うことも人生の一部だ。そして昨日、友人が話していたことを思い出す。その人は、この2年くらいで非常に大きな決断や考え方の変化を経験していて、それはきっかけがあったからでもあり、同時にきっかけがなくても成し得ただろうと思えるほど素晴らしいものだった。

やっぱり、人と話すことで気づかされることが多い。自分はどちらかといえば、そうやって人との対話の中で何かを得ていく人間なんだなと、このところ続けて思っている。そして、もっといろんな人と話したいなと思ったりもする。

2025-09-23

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