書く実験の記録

#754 忘れるために書く

タスクなんかは、ずっと頭の中にあるとあれこれ覚えておくのがしんどくなってしまうので、全部どこかに書き出してしまうのが良いとされている。もちろんいろんなやり方があるだろうけど、大きな意味ではこれに反対する人は少ないだろう。

もし自分が全てをずっと頭の中に覚えておいて、何もメモせずにできるようなすごい能力を持っていたりしたらいいと思うのだけれども、まあ残念ながらそうではない。気になっていることを全部頭の中に持っておくと、パソコンのメモリが逼迫している時のように処理が遅くなってしまったりするので、やっぱりある程度メモリを解放した方が良いと思っている。そういう意味で、世間で言われているようにタスクとか気になっていることを一回全部書き出してしまうのが良いというのには非常に賛成している。

そしてそれは、「忘れる」ということと「覚えている」ということの両方の側面を持っているように思う。つまり、何かを頭の中で覚えている状態がまずあったとして、それは「覚えている」という状態なわけだ。そしてそれを紙に書き出すというのは、そこに記録として残るわけなので、それはまあ何というのかな、頭の中にあって忘れてしまうということよりは記録として残っている。大きな意味では忘れられていくことが減り、むしろ残っていく可能性が高くなる。つまり、それは「覚える」ということでもあるだろう。

人間の脳みその外の紙であるとか、パソコンのテキストであるとか、いろんな形はあるけれども、その紙1枚であったとしても、それは自分の脳を拡張するというか、外部に「覚えている」という状態になるのだろう。そして一方で、その後自分の頭から追い出すことができたら、それは完全に忘れるわけではないにせよ、忘れてしまったような状態、つまりメモ帳に書き出した後にそのことをすっかり気にしなくて済むようになる。それはある種「忘れている」と言ってもいいだろう。

つまり、外に書き出すということは、自分の脳みその外の補助の脳に覚えさせることであり、自分自身の脳みそからは忘れるということでもある。

何か辛いことがあった時、嫌なことをされた時、誰かのことが嫌いな時、そういう時に何かを頭の中に覚えておいて、ずっと気にし続けるのはしんどい。初めはタスクのことについて考えていたけれども、タスクではないものについても考えてみると、そこには同じ部分も違う部分もある。

例えば、嫌なことがあったとして、そのことがずっと頭の中に残っていて気になっている状態。これはずっと嫌な気持ちになるし、できれば忘れたいなと思うことがある。だけど、自然とそのうち忘れられるかもしれないし、忘れられないかもしれない。忘れるのがずっと先になってしまうこともある。

その時に、その嫌な思い出というものを外の脳みそに書き出してみる。テキストにしたり何かに書いたりしてみる。そうすると、大きな意味で言うと完全に忘れることはできなくなるけれども、自分自身の脳みそからは追い出すことができるかもしれない。ずっと気になっているよりは、追い出すことがしやすくなるように思う。もちろんそこは本人次第だから、そうではない時もあると思うが、タスクのことを考えれば、本人がその気であればそういうことができるし、それを手助けできる。つまり、補助することができる行為なのではないかと思っている。

あとは最初に書いたように、全てのことを完璧に覚えていることができる、まあ写真記憶のような人もいる。それはそれで大変だとも言うけれども、人間にとって「忘れる」という機能はすごく大事だと思う。これは近年、自分が繰り返し言及してきたテーマであり、重要なことなのだろうと思う。

「忘れる」ということ。それは最終的には死によってすべての記憶が消えてしまうことでもある。まさに究極的な「忘れる」という行為だ。そしてそれまでの間にも、できるだけ嫌なことは忘れてしまうのが良いと思う。

しかしその方法として、頭の中にいろんなことをずっと覚えておくのが得意な人がいたとしても、あるいはタスクであれ嫌なことの記憶であれ、それがどれだけ正確であっても保証することは難しい。頭の中にあるだけだと、他人との記憶の食い違いが発生した時に「この人は記憶力がいいから正しいだろう」と判断することはできても、結局メモとして残っていることに比べれば弱い。

状況証拠やその他の記録を組み合わせることで正しさを補強することはできるけれども、メモがあることにまさるものはない。もちろん、メモ自体が間違っていたり、意図的に誤って書かれていたりすれば厄介だが、それはまた別の問題だ。

2025-10-04

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