書く実験の記録

#762 本を選ぶ

いろんな本を雑に流し込むように咀嚼して――いや、咀嚼もしていなくて、雑に噛んで雑に飲み込む。もしくは噛みもせず飲み込む、流し込む。そして一品食べ終わったら、また間髪入れずにすぐ次のものの「食事」に取り掛かる。

しかしもちろん、その次のものに取り掛かるまでの時間はかなり短いので、「次に食べるべきものは何なのか」ということ自体もあまり深く考えておらず、とにかく目の前にあるものを飲み込む。
「目の前にある」ということ自体が、すでに「目の前に用意されている」ということでもあって――では、その「用意されていること」とは何なのかというと、今であれば例えば Amazon のリコメンドであったり、X の投稿で見かけて気になっていたものとか、もしくは少し昔であれば――というか今でもそうなんだけれども――自分自身があまり本屋に行かなくなってしまっているという現状を示している。

自分にとっては少し前のこと、しかしもちろん今もその文化はあるんだけれども、本屋に行って並んでいる本の中で面白そうなものを買うということだろう。いずれにせよ、それは今の Amazon のアルゴリズムによるリコメンドに支配されてしまう――支配というか、そのようなものに乗っかってしまう。

以前でも基本的には、本屋で出会う本というものも結局はその本屋の品揃えであったり、並べ方によって選択の幅というものはあらかじめ限られていて、絞られている。だからそこで自分が何を買おうという時、自分の自由な意志というものはもちろんあるんだけれども、それ以前にその「選択の範囲」や「選択の優先順位・重み付け」みたいなものは本屋さんの店員によって絞られている、範囲が狭められているとも言えるだろう。

全く何もない状態の中から、この世にあるすべての本――もしくはこの世に出ているすべての瞬間みたいなもの――から、まっさらな気持ちで何の重み付けもなく選んでいるわけではない。その人もまた何かから影響を受けている。そしてそこには出版社の営業さんの意図であるとか、様々な要素が介在している。それがインターネットであろうと、今であればもちろん本を選ぶ人、本屋さんの店員自体も様々な情報・メディアに影響されている。

そのようにいくら辿っても、純粋な「まっさらな状態」――人間の意志や重み付けみたいなものが介在しない状態――というものは、どこまで行っても存在しない。
……というのは間違いかもしれないけれども、ひたすら追い続ければどこかでまっさらな状態というものは存在するのだろう。しかし少なくとも「自分が何かの本を選ぶ」という行為の背景から、自分以外の人間の意図を排除し、「純粋に自分の意志でこの本を選んだのだ」と言える状態にすることは、とても難しいし、ほぼ無理だと言ってもいいだろう。

科学というものが存在しない時代――まだいろんなものの仕組みがわかっていない時代。わかろうとしているかどうかもわからないけれども、とても昔というのは、あらゆるものが抽象的に扱われていて、つまり原因と結果みたいなものは今ほど明確ではなかったのではないかと思っている。

もちろん「人を殴れば殴られた人が痛い」みたいなものは、どの時代においても直接的に分かりやすい因果関係である。けれども、もう少し分かりづらいものであれば、現代の人間であっても、それを学習などしなければ全くわからないものもたくさんある。それは自然現象であったり、人間の行為や選択であったり――あらゆるものの因果関係というものはもっと抽象的であり、むしろそこは紐付けられていなかったのではないかと思う。

そして、因果関係が存在しない結果というものは、ある種の「奇跡」である。なぜなら、奇跡というのは「原因によらない結果」みたいなものだと解釈しているからだ。
それが「奇跡」というのか「超能力」というのかわからないけれども――まあ超能力というのも「人間の能力」という範囲に狭めているので――何かわからないが因果関係が不明な何かすごいこと。

例えば、僕が今座っているこの空間の目の前に、突然リンゴがポンと現れたとしたら、それは奇跡である。全くわからない、因果関係が全くわからない。存在するとは思うが、それは自分にはわからない。

だけど今、自分は iPhone に話しかけて、それで何かの結果を引き出すことはできる。そこには因果関係の理解がある。けれども、原始時代の人間であれば――いや、原始時代でなくても、コンピューターというものや様々な技術が存在しない段階では――それを因果関係として理解することはできない。それはおそらく「奇跡」と捉えられるだろう。

だから結局、「奇跡かどうか」というものは因果関係の理解ができるかどうか、その時代の人間にとって因果関係が理解できるかどうか、ということでもあると思っている。因果関係が理解できないものは「奇跡」として捉えられることもあるだろう。

――ポジティブな驚きがあること。

けれどもこの辺は、つまり初めになぜ「本を選ぶ」という話をしていたのか、ということにもつながる。自分がなぜこの本を選んだのかということに。

あらゆるものの関係性や因果関係、相関関係が明確になっていった時、「私がその本を選んだ」ということはどんどん逆になっていく。つまり「私自身がその本を選んだわけではない」ということになっていくのだ。

これはまさに「自己責任」や「自由意志と責任」の話である。

そうやってあらゆるものの自由意志というものがどんどん存在しなくなっていった時、例えばそれが犯罪のようなものであった場合――今でも心神喪失の問題などがあるけれども――これから様々な因果関係が明らかになっていった時に、どこまでをその人の責任とするのか。

つまり今は「自由意志」と「責任」というものが紐付けられている。自由意志があるから責任があり、責任を取るためには自由意志がある必要がある。しかしそれを突き詰めていくと、究極的には「自由意志は存在しない」ということになる。もちろん今もそう言われているわけだけれども。

それがより本当に科学的に一つ一つ明確になっていった時に、どこかで「自由意志」と「責任」というものを切り離さなくてはいけない時が来るのだろうか――などという想像をしている。

……が、ものすごく適当に話しているので、よくわからない。

2025-10-14

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