#781 無関心という信頼

複数のことを同時にやろうとせず、同時に一つのことだけをやる——このことを最近強く思う。
しかし、それはそう言うと、自分がそれができているかのような話に聞こえてしまうかもしれないけれど、実際には全くその逆で、それがうまくできていないからこそ、まさにそれをすごく気にしているということだ。
何かが意識せずとも無事うまくできている時というのは、何かを意識する必要はない。
例えば、日本人は長らく政治に無関心だったと言われているけれども、それはうまくいっている時においては悪いことではない。むしろ、それが悪いことではないからこそ、関心がなかったということもできると思っている。
なぜかというと、人々がものすごく政治に関心があって、毎日取り組んでいるという状況自体は、それほど良い状態なのかというと、そうではない。
政治自体は何も「生み出す」ものではないと言うと語弊があるかもしれないが、例えば何かを作り出すようなことではなく、仕事で言うとマネジメント側の仕事だと思っている。
政治や行政というものは、社会がうまく回るようにそれをマネジメントする立場なわけだ。
だから逆に言えば、みんながそのマネジメントを意識することすらなく、自分がやるべきことに集中できる。
マネジメントに信頼を置き、自分のやるべきことがうまく回っていて集中できているからこそ、マネジメント側に意識を向けずに済んでいる。
それ自体は別に悪いことではない。全体でうまくいっているのであれば、それは悪いことではない。
もちろん、政治的無関心というものが高まりすぎることによって起きる問題もあるけれども、それはまた別の話だと考えている。
とにかく、「政治的無関心=悪いこと」とは限らない、というように思っている。
同様に、例えば今、初めに私が言ったように、「同時に複数のことをやろうとせず、一つ一つのことをやっていこう」なんてことを言ったり思ったりしている時点で、それはそれができていないからだ。
呼吸をするかのようにそれができていて全く問題がなければ、そんなことを考えもしない。人はできていないからこそ、それを口にするわけだ。
例えば、フランス革命の有名な三つの単語があるけれども、なぜそれを掲げたかというと、それを掲げなければいけない状況だったからであり、それが存在しなかった、もしくは足りなかった、実現できていなかったという状況だったからだ。
だからこそ、それを掲げて活動し、行動したわけだ。
人は、できていること、意識せずともできていることを殊更に意識はしない。
当たり前のことを言ってしまったが、意識せずともできていることを意識しないというのは、まあ当たり前のことだね。
それはそうだ。
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