#798 レシートは、まだ少しだけ紙である

これを書くのによく使っているGPTがあるんだけれども、最近のOpenAIのモデルのアップデート、つまり5.2が出たということによって、そのGPTのモデルが5.2になってしまった。普段であれば、もちろんモデルの性能が良くなることは良いことだし、問題はない。実際、それほど大きな問題は起きていなかったんだけれども、今回モデルがアップデートされたことによって、今までうまくいっていた出力のフォーマットが少し違う形で、望ましくない形で出力されるようになってしまって、それがなかなかあまり良くない体験であった。
もちろん修正すれば良いので、先ほど修正した。今も実際にそのツールを使っている、そんなGPTを使っている。特に問題はないはずだ。テストもしたしね。しかし、これがたった一つの、自分が自分のために作って、自分が使っているだけの小さなツールであるから特に何の問題もない。ちょっと修正すればいいだけなんだけれども、しかしこれがもし仕事の納品物であったりとか、もしくはチームのみんなで使っているようなものであったりとか、そのどちらか、もしくはそのようなものだとすると、想像するにかなり面倒くさい状況だ。
じゃあモデルを固定すれば良いのだと思うし、もちろんそれはそうなんだけれども、例えばChatGPTが、私がそれ以前うまく動いていたバージョンである5.1というものがあるとして、それをいつまでも動くように持ってくれている、保持してくれているか、動く状態で使えるようになっているかと言うと、それはサービス側に完全に委ねられているし、依存している。しかし、依存という意味で言うと、もちろんそもそもそのサービスで動かしているので完全に依存しているわけだから、一部だけ依存してもいいというか、一部依存することが今更何の問題があるんだというのももちろんわかる。
けれども、やはりサービスが終わってしまったりということと、モデルがアップデートされて挙動が変わるということは、やや問題の深刻度が違うというか、サービスが終了するのであればそれはもう完全に諦めて別のものに乗り換えるしかないんだけれども、その深刻さというものはおそらく明確に認識されやすいものだと思う。一方で、今回のように、しかもむしろモデルが新しくなって性能が良くなるというのは通常は良いことだし、もちろん私も良いことだと思っているから常に最新のモデルを使うわけだけれども、このようにフォーマットが決まっているようなタスクに対しては、そういうこともあるのだなと思った。つまり、今までのプロンプトに対しての解釈・理解・挙動が変わったということになるわけだね。
ところで、この間書いていて自分で思ったんだけれども、タクシーに乗りながら京都の町を眺めながら書いた文章は、別に大した内容ではないし、何の意味もないんだけれども、しかし自分にとっては何か良い読後感があったというか、読後感というか、自分で書いているのだから独語感も何もないんだけれども、文章の長さとか短さとか、そういう部分はやっぱりあるように思っている。話がいきなり飛ぶけれども、まあそれは置いといて。
そのように車窓を見ながら書いた文章というものは、独特の味わいみたいなものがあるなと自分で感じている。一方で、家にこもってパソコンの前に向かって書いているものというのは、やはりある種の閉塞感みたいなもの、閉じこもった感じのベクトルを感じている。もちろんそれも悪くない。それはそれで、元々そのように書こうとしていたものではあるし、むしろ自分の考えとか、踏み込んだところを書きたいのであって、叙情的なことや考えについてランダムに散歩するように掘り下げるというわけではない。
要は散歩だし、ランダムに歩くわけだから、それが掘り下がっているのか、下なのか右なのか左なのか上なのか、もしくは甘いのか後ろなのか、そんなことは全くわからないわけで、どこに住んでいるかなんて全くわからない。しかし、その結果として何か面白いアウトプットがあればいいということでしかないし、そのこと自体もまた一つの実験でしかない。
そもそも、このもうすぐ700回に及びそうなこれを続けているということの意義というもの自体、別に何らかの意義があるのかどうなのかよくわからない。話は変わるけれども、やっぱり紙の記録が残っているっていうのはすごい面白いことだなと思っている。例えばレシート一つであっても、取っていると、もちろんコンビニで何かを買って全然意味がないし、後から見ても何も面白みがないようなレシートもあるし、もう一方で、コンビニのレシートであっても何かしら文脈が乗っかっていて、何かの記憶を想起させたり、誰かとの思い出であるとか、自分がその時考えていたことなんかが思い出されて、すごく面白いレシートもある。
そうではないものももちろんあるし、そうやっていろんなものを残してきたような気持ちになるけれども、デジタル化によってどんどんそういった記録みたいなものはデータの上にしか存在しなくなっている。もちろんそれはそれで便利だし良いと思っている。だから全てをアナログに置き換えたいみたいな気持ちは全くない。
例えば、高齢……そういえばAmazonで何を買ったっけ、この金額で何を買ったっけ、と思った時に、自分のGmailをその金額の数字で調べたらパッと出てくる、というのは、例えば膨大なレシートの中から探すのにかかる時間と比べると圧倒的に良い。一方で、なんとなく、全てがデジタルになってしまった時に、一抹の寂しさを感じたというか、それは最近部屋を片付けていて感じたことでもある。
それは例えば、今年一年の中で片付けをしている時に、そこにあるレシートを見た人にしかわからない、その場に行ってそのレシートを見た人にしかわからないような情報がある、ということだ。そういったものが全てデジタルになってしまうというのは、何か味気ないものがあると思っている。例えばカードの履歴一つとっても、コンビニに行ったという履歴は残るけれども、何を買ったかまでは書いていない。だから単純に記憶が喚起されないというのはもちろんある。
しかし、仮にそれが細かく書いてあったとしても、やっぱり人間というものが物理的な存在である以上、物理的な存在であるものに惹かれてしまうような気がする。そうは言っても、物理的な存在とはいえ、脳みその中というのも結局は脳みそという物理的な存在による物理的な状態であって、何か高次の、ここには存在しない次元のものであるとは考えていない。
それでも、データでしかないものというのは、やっぱり近いようで違うものを感じていて、つまり紙だけではないし、データだけでもない、そこには何か言われるでもなく、言われない良さみたいなものがあるのかなと。では、それは何なんだろう、ということだね。
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