書く実験の記録

#802 まだ体は2025年

癖というものをすんなり変えるのはなかなか難しい。切り替えるのは難しい。例えば、これは癖ではないけれども、いわゆる一般的な癖ではないけれども、今2026年に年が変わって年をまたいで、今1月3日だから2日が3日ぐらい経ったということになるんだけれども、日付を書いたり言ったりする時に、ついついまだ2025年と言ってしまう時がある。書いてしまう時がある。いわゆる一般的な癖ではないけれども、これもまた一つの、1年間やってきた行為による、まあ何て言うか、こう、癖の一つだとは思うし、これが徐々に、少しずつ日が経つにつれて、2026年というものがすっかり、すっきり自分に染みついてくる、染み込んでくるというものだと思う。

しかし、時間というものは考えれば考えるほど面白いものだ。不思議なものだ。この辺はいくつかの本を読んでみたりはしているけれども、これについてまだ語れるような状態ではない。もしかしたら一生、語れるような状態にはならないかもしれない。でも、そうだな、時間の経過というものを人間、というか生物が感じているというのは、実は不思議なものだ。それについて深掘りするのはここではやらないけれども、少なくとも、この2026年になっているにもかかわらず、まだ2025年だとついうっかり発言してしまうというのは、その体にまだ2025年が染み込んでいる、体はまだ2025年だと思っている、とある意味では言ってもいいかもしれない。この状態というものは一体何なんだろうか。

まあ、「一体何なんだろうか」と言いながらも、それは時間という概念とは全く関係がない別のものであるということは分かってはいるんだけれども、なんだか現実の時間の「2026年」という存在、と言うとちょっとおかしいな、何だろうな、存在というとちょっと違うけれども、とにかくこう、共通認識としてある何かの基準として、現在が2026年というものになっているという現実の時間と、ふとした時にまだ自分がついうっかり2025年と口にしてしまうという自分の感覚、その感じているというか、どちらでもない自分自身。だってもちろん、今が2026年であることは十分分かっていて、なぜならばすぐに間違っていることに気づけるからだ。

だけれども、ついうっかり2025年だと口にしてしまう、体がそういうふうにしてしまうというのは、何も考えずに口にする、要は反射的なものだなと感じている。例えば「今は2025年だ」とか「2026年だ」とか、そういった部分を書いたり言ったりするというのは、もちろん何かを考えて話しているんだけれども、そうは言っても、もう少し反射的に出てくる言葉の部類だと思う。だからこそ、体の深い部分、脳の深い部分、思考の深い部分というか、それが体なのか思考なのかという点はさておき、とにかく自分というものの中には、まだ古い時間が流れている、もしくはまだ2025年が続いているのではないかと思う時がある。

そういえば、少し話は変わるけれども、先日読んだ本で気になる言葉があった。それが確か、ここしばらくの間に読んだ本の中で二つぐらいあって、別々の本でそれぞれ一つずつ、何かそういう言葉が気になった。その言葉というものは、すっかり忘れてしまっている。変換がうまくいかないけれども、とにかく忘れてしまっているわけだ。

しかし、こういったものをどのように保管するのか、こういった情報をどういうふうに保存するのかというのは結構悩んでいる。例えば、何らかのアプリであるとか、何らかのツールであるとか、そういったものに書いていくというのは、これはまあ、なんていうか、失われていくんだよね。10年後、20年後に見た時に面白いんだけれども、それが失われてしまうという感覚がある。一方で、検索性という意味では、やっぱりデジタルデータにメリットがあるし、残すということに関して言っても、デジタルデータの方が残りやすい場合もあるだろう。

だけど、ずっと昔に書いたメモ帳みたいなものが出てきたら面白いんだけれども、ずっと昔のハードディスクの中というのは、正直言ってあまり見ない、というか、見ることができない場合もある。もしデータが残っていたとしても、ああいう構造になっているものを掘り返すのはなかなか億劫だ。だから本当は、アナログの形で断線的に残っている、一つのタイムラインとして、一つの線として残っているものと、日々の検索性や利便性、再利用性に基づいて活用しやすいデータ、その両方が残っているのが理想なんだろうなと思っている。

もちろん、それは人間があまり得意とするところではない。毎日、両方を書き出すというのは無駄だし、得意でもない。だからそれは何か機械にやってほしいところではある。じゃあ、デジタルの方を機械化するのか、もしくはアナログの方を機械化するのかと言うと、これもまた難しいところだ。アナログのメモ帳にメモすることで、それがデジタル化される製品もたくさん出ているけれども、いまいち定着していないように思う。結局のところ、キーボードで入力することも多いし、コピー&ペーストして取っておきたいものもあるし、取っておきたい画像もある。

結局のところ、どうやって情報をある人のタイムラインとして取っておくのかというのは、結構悩ましく、難しい問題だ。少なくとも、デジタルで取っておいて、それを印刷するというのは、1年に1回ぐらいやってもいいのかもしれない。しかし、例えば雑誌なんかは、1ページの大きさが決まっていて、その中に入る情報のボリュームも決まっている。そこに収めるという概念がある。それはアナログのメモ帳でも同じで、1ページに収められる情報には限りがある。

一方で、デジタルの情報というものは、物理的に本当に無限なわけではないけれども、人間からすると、もはや無限と言えるような量を扱える。メモアプリの一つのページに書ける文字数も、人間の感覚からすれば無限に近い。それが機械的には上限に達することがあるとしても、人間が真面目にキーボードを打ち込む限り、十分に余裕がある分量だ。

つまり、物理的な紙の1ページには上限があって、それが良い影響を与えている部分もある。一方で、デジタルメモ帳には終わりがほぼなく、書きすぎてしまう。だから、それをどうやってアナログとデジタルを行き来するのかという問題がある。最近思うのは、ある種の物理的限界が定められているというのは、結構重要だということだ。

なぜならば、それは多くの人にとってそうだと思うし、少なくとも自分にとってはそうだけれども、人のキャパシティは人によって違う。あくまで自分がそう思うという話でしかないが、人間というものは物理的な限界がある存在だ。それは認知能力や知的能力全般においても同じで、一時的に何かを覚えておく能力にも限界がある。

その点において、コンピューターの方がはるかに得意だ。最近のAIの発展によって、「覚えておく」能力や、そこから「引き出す」能力までもが、人間を超えつつある。人間には限界があり、コンピューターにももちろん限界はあるけれども、人間の物理的限界をはるかに超える可能性がある、という議論はされているわけだ。

2026-01-03

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