書く実験の記録

#804 思い出したり流れたり

時々、遠い昔の失敗を思い出すことがある。出来事そのものを思い出すというよりは、その失敗した瞬間の風景のようなものを思い出すことがある。まあ、これは別に大したことではなくて、重大なPTSDであるみたいなことを言うつもりはなく、単純にふと頭をよぎる瞬間があって、それは何でだろうと思っているぐらいの軽い話である。

例えば、よく思い出すシーンとして、小学校時代のある失敗の場面がある。それはそもそも何だろうな、別にそれほど大きな失敗でもないわけである。というか、むしろ失敗ですらないかもしれない。ただ、自分としてはとても何か恥をかいた、恥ずかしい思いをした経験なのかもしれないし、まあ何かこう、ショックだったのかもしれない。そして、自分がその時に見た景色であるとか、その視界に映っていたものであるとか、その時の感覚や感情、言葉みたいなものも覚えてはいるけれども、しかし、そんなものは時間が経つとどんどん変わっていく、変化していくものなので、記憶というものは全然当てにならないと個人的には信じている。

だから、きっと今自分が覚えているその感覚というものも、実際には全く違ったものだったんだろうと思っている。しかし、いずれにしても、それが全く違ったものに変わってしまっていたとしても、これも証拠はないから確かではないけれども、さすがにその出来事があったこと自体は多分事実である。まあ、些細な出来事で、本当に些細な出来事であるが、逆にそれだからこそ、今でもその出来事が、当時の自分にとっては大きな出来事だったのだろうと思う。それだけ強く記憶に、もっと言えば脳に、それだけ強く刻み込まれているのだなと思うことがある。

そういったように、時々思い出す出来事というのは、大きなものもあれば小さなものもある。むしろ、小さな出来事であっても、感情を大きく揺さぶられたものこそ、なぜそのように印象に残っているのかということが気になったりする。そして、気になるからこそ、より印象に残っているということもあるのかもしれない。

今は、ゆっくりと小さい頃のことを思い出したり、誰かとそれを話したりする時間や機会というものは、正直言ってない。そもそも、誰かと話すようなことでもないというか、それが家族の中で起きたことであれば、親や兄弟と話すかもしれないし、学校のことであれば、例えば当時の同級生と話すことがあるかもしれないけれども、話すほどでもないというか、もはやそのような出来事があったことすら、自分以外は誰も覚えていないだろうということもたくさんある。

だから、繰り返しになるけれども、自分としては、むしろその失敗がどうこうということでもなく、それが本当にあったのかどうか、あるいは今の記憶がどの程度事実に基づいているのかということでもなく、なぜそのような些細な出来事を今でも強く覚えていて、それを時々思い出してしまうのかということの方に興味があったりする。

話は変わるけれども、最近何度も触れているように、とにかく何かをせっかく思いついても、だいたいのことは忘れてしまう。何か出来事があったり、何か思うことがあったり、とにかく出来事というものは、自分の周囲だけでも膨大に、常に何かが起きている。それに気づくか気づかないか、もしくは気づいたとしても、それを気にするかどうか、気に留めるほど気にするのかどうか、そういう違いはあるけれども、いずれにしても、自分の周囲では膨大な出来事が発生している。

しかし、それらのほとんどは、実行されることもなければ、実現されることもなく、記憶されることもなく、過ぎ去っていく。確認されることもなく、何も起きなかったかのように、何もなされることもなく、何も気にされることもない。その中には、よく考えたら後で思えば、結構いいアイデアだったなというものもあるし、いいアイデアだったけれども実現できなかった、もっとリソースを割いていれば、あるいは単純に実現できていれば、結構良かったんじゃないかなと思えるものもあったりする。

いろんな段階があるのだけれども、とにかく多くのものが発生して、多くのものが流れていって、多くのものを取りこぼしているような感覚がある。できれば取りこぼさずにいたいと思えるようなこと、それすらもたくさん取りこぼしているような、そんな感じがする。

2026-01-11

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