書く実験の記録

#825 言葉を使うということの慎み

最近、私が見ているSNSの世界では、1つの話題として、もちろんたくさんある話題の1つとして、たくさん流行っている話題の1つとして、ある話題が盛り上がっている。

そして、この問題を説明すること自体がまず難しいのだけれども、それは説明するには言葉を使わなくてはいけないからで、その言葉を使う時点で言葉の定義に依存してくるわけで、それが非常に難しいことなんだけれども、まあ誤解を恐れずに言うと、というか100%誤解されない、ミスリードされないというのが難しいということ、一定程度のミスリードの余地があるということを理解しつつ説明すると、非常に大雑把に説明すると、というように非常に前置きしつつ説明すると、いわゆるメディアアート的なもの、テクノロジーアート的なもの、いやもう少し何だろうな、えっと、そうだな、東京であったあるイベントのことが話題になっていて、いやもうそのイベント自体というよりは、東京であったあるイベント及びそこからその話題が発生したというか、その周辺の、それをどう定義付けるのか、そういったことが話題になっている。

そのイベントに関連して語られている他のイベントであるとか、他の催し物であるとか、催し物とはイベントなのかもしれないけれども、そういったものをどう作るのかという用語の問題について、揉めているというか盛り上がっている、いろんな意見をみんなが持っているということになるだろうか。非常に曖昧かつ、いろいろなものを回避した説明になっているが、まあ言葉の難しさだ。

つまり、これは具体として言及するというよりは、言葉の難しさについての話なのかもしれない。その言葉というのは、正直言って私自身もすごく何か説明ができるわけではないから、自分としては説明ができるわけではないので、それをあまり使わない、積極的に自分自身の言葉としては使わないというようにしている。今、自分で言ってみて思ったが、自分自身の言葉として使わないというのはポイントなのかもしれない。

これはどういうことかというと、その言葉を使わないということではないわけだ。例えば、Aさんという人がBというものをやっています、もしくはAさんはBですと言うと、ここにはBというものがAさんがやっているもの、もしくはAさんそのものを示しているということを私が考えているのか、別の人が考えているのか、つまりAさんがそう言っているのかどうか、よくわからない。私の価値基準、私の価値判断が入っているような可能性を含んでしまう。

しかし、AさんがBという何かを標榜しているであるとか、AさんがBと書いているであるとか、AさんがBと名乗っているであるとかということであれば、そこには私の価値判断は入らない。ここは、そんなことどうだっていいじゃんみたいな細かい話でもあるし、しかしそれが重要になることもあるし、揉め事の原因になる時もあるし、そこを明確にしておくと揉めないという時もあるし、非常に基本的なところとして、自分の意見なのかそうではないのかということを明確にするということでしかないんだけどね。

もう一つは当事者性の問題があるんだけれどもそれはまた別の機会に書こう。

2026-02-18

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です